「〜らしさ」とは

主に音楽系アーティストを語る際に使われる「〜らしさ」について考える。

「らしさ」…その人や物事の特徴(goo辞書より)
意味は置いておいて、この言葉が使われるのは多くの場合、その活動の内容や傾向が変わったりしたときだろう。
ただ、これは驚く程主観的な要素で溢れている場合がほとんどである。

普通、アーティストやその関連がわざわざ「〜らしさとはこうである」と定義するようなことはない。
見る者もしくは伝える者が勝手にそういうイメージを抱き、知らず知らずのうちにそれを期待し、時には無理矢理その枠に当てはめようとする。
人の中では独自にカテゴリ分けを行って脳の中で共存させてるのかもしれない…

ただ、当然のごとく、明確に定義されてもいないこの「〜らしさ」からそのうち外れる場合が出てくるのは想像に難くない。
その時に、受け手は脳内の「〜らしさ」の枠を自然と拡張しなければならないのだが、時々その自分が勝手に作り上げた枠に収まっていないだけで、「〜らしくない」「〜は変わってしまった」「〜は他人にやらされている感がある、もっと〜らしくすればいいのに」と評する人がいる。

確かに、業界としてそういう諸事情によってやりたくもないことをやらされていたり、本人達の自由にできていない場合があることも確か。
ただ、そういう事情すべてを把握しているわけでもない受け手が、こういった言葉を吐くのは非常に問題がある。

こういった芸能活動は、当然活動する本人達の意志によって始まり、それによって動かされているものだが、活動していくに従って、その本人だけの意志ではなく、そこに共感し活動を共にする存在(=裏方・スタッフ)及びファン(という集団)の意志をも組み込んだ存在になっていくことが多いんだろう。
こうなると、多数の人間の意志が集まり、その結果期待値は大きく膨れあがることになる、人個人個人の意志は様々であるからだ。
ただ、その活動がそんな意志すべてを背負えるものではない、ある一定の部分を核とし、それ以外の要素については切り落としていくしかなくなる。時間は有限であるからだ。

おそらく、この意志の切り捨て、に会ってしまった個人が吐く言葉が「〜らしさがない」なのではないかと考える。
この切り捨てはある種残酷だ、期待していたものを裏切られるわけだから。
ただ、それは活動に対して「誤った期待」をしていた方の責任である。
もちろん、継続的な活動により方針自体が変わることもあるし、多少の揺らぎを含むことは仕方ないので、それにより期待する方向が実現されない場合もあるが、これも期待していた側の責任。

その時に、素直に現状を把握して、「実現されうる活動に自分の期待を拡張・適合させる」のか「諦めて離脱する」ことが求められる。
だが、人は我がままであるがゆえに「〜らしくない、もっと〜らしく活動してほしい」と自分の期待する方向に寄せようとする。
結果として、好きであるが故の批判が出てくる。
残念ながら、活動が大規模になればなるほど一個人の意志を反映できなくなっていくので、諦めることが肝心。

ただし…この個人には、活動の主体である「本人」が含まれる場合もある、これが一番最悪の状態を引き起こす。
「本人」の期待する意志を反映できていない活動は、やはり根本的に問題があると言わざるをえない。
それが、仮に業界として成功できないことが明らかであるために、「本人の意志」と別の方向に持っていってる場合であったとしても、やはり「本人」の期待を尊重できない活動にはすぐ無理が生じる。

「本人の意志」を捨ててまで活動を継続させることに意味があるのか、「本人の意志」を最大限尊重して、いずれ活動ができなくなることを受け入れるのか、常にこの二種の考えが葛藤を起こしているのが現代の業界なのでは、と推察する。

故に、本人の意志としてやりたいことをして、活動を継続できていること、これは非常に希有なことであり、奇蹟的なことであると言える。
今、私はそれが起こっていると考えられるアーティストを一組知っている。